《睨む視線がこちらに向けられると、自分が悪いと思ってた》

カウンセリングのおかげで、睨む人が怖くなくなりました。
睨む人が悪いと思えず、睨まれる自分が悪いと思うようになった原因が、
カウンセリングを受けてわかりました。
私が2歳の頃、保育園の待機児で、6ヶ月くらいの間、朝8時から夕方5時までの9時間、近所のおばちゃんに預けられていました。
このおばちゃんは子どもが嫌いな人で、ちょっとでも動くと
「じっとしていなさい。」
と大きな声で脅し、睨んで私がいい子にするように操作していたのです。

幸せを感じることの少ないような…不幸そうな人でした。
私はそのおばちゃんから睨まれるのが怖くて、いい子にしていてました。
おばちゃんは、かわいそうな人だから、迷惑かけないようにしないといけない、手を煩わせないように…私が我慢していれば、母が迎えにきてくれるまで。
私がじっとしていれば、ニコニコ笑っている優しいお母さんが来てくれる。
ある日おばちゃんは、私を待たせていたことを忘れてしまったことがあって、気がつけば、私は同じ場所でちょこんと3時間もじっと座っている子だったと、後日談で聞きました。
おばあちゃんが睨む、その視線が私に向けられているから
私が悪いんだと思っていました。
その場面に身を置くと、幼い私は感じないように、欲求を出さないようにしています。
そうしていると、世界が白く、気が遠くなりそうになります。
でも、嫌だと感じ、自由にはしゃぎたいと思うと、世界に色が付き、肩が痛く、胃が膨らみ、身体が温かくなって汗をうっすらかくほどです。
私の身体は、吐いたり、席したり、肩こりしたり、胃が膨らんだり…
色んな信号を私に送って怒りを教えてくれていたのです。
私の身体は賢かった!
「怒り」「いやっ」を感じて初めて思考も働き出すものですね。
今思えば、おばちゃんは子どもが嫌いで、私をじっとさせたかったから、大きな声で脅したり、睨んだりしていい子にさせようとしていたと、わかりました。
睨まれる私は、悪くない。
睨まれるのが、嫌で良い。
睨む人が、嫌いで良い。
そう再決断したら、ここ数日、睨む人が怖くなくなりました。
息を止める癖もこの辺りから来てたようです。
約一年前の11泊12日の瞑想所への出発の朝の息苦しさは、
きっと子どもの頃のおばちゃんの家に預けられる時の息苦しさ、閉塞感だったと思います。
また、瞑想に行ったら、閉鎖された空間でも、さらに心の自由を感じられるかもしれない。